最初の養殖場が出来たのは昭和43年(1968年)県北部の国頭村が第一号です。 当時、沖縄は米国統治下で、琉球政府と呼ばれていた頃で、日本復帰する3年前でありました。当時県外との取引は外国扱いで、L/C貿易、パスポートの時代でしたから、復帰後の新事業を目指し、投資家達は、南国沖縄の立地条件として鰻の成長がいいだろう梱包発送も検査なしで簡素化されるとの思いから一気に鰻の養殖のブームになりました。 新聞でも新事業とその将来性の見出しで出たためにブームは更に拡大して行き、オリオンビール、北部製糖などの沖縄の大手企業さえも参入し、数年後には46業者に膨れ上がりました。 昭和45年(1970年)には県外取引きの窓口として『沖縄県養殖鰻事業協同組合』が設立され、約、40業者が組合員に参加しました。
最初、養殖事業は好調のように見えたが、時間とともに経験の無さ、冬場の対策に起因する、大量斃死、病鰻の処置などで、弱体化し、それに対する、設備、投資、借金、返済金の対応、倒産という最悪の流れになって、金融機関も融資拒否となって消滅していきました。 又、シラス業者にフランス産を買わされ、大損害を蒙った所も数件ありました。 転業として成功したのは、海浜地区の業者でクルマエビが4件ほどあり、現在も元気です。 今、沖縄県内の鰻養殖業は、当社を含め3軒しかありません。
当社の養殖事業は原料鰻(クロコ)の生産は主体として、成鰻の生産量はシラスの捕獲量と価格によって年間40~150トン、そのほかの業者は年間20~30トン程度。